90歳を超えても元気に詩作を続けていらっしゃる細川喜久惠さんに初めてお会いしたのは、2019年3月の「とやま文学」合評会でした。

会合の後、〈私は翁久允ご夫妻や高島高とお会いしたことがある。富山へ引っ越しされた時もお手伝いした〉と声をかけて下さいました。その後電話や手紙のやり取りでお付き合いしておりました。佐渡生まれの細川さんは、第二次大戦中に五百石に嫁がれ、当時勤務先の立山製紙社の工場長をしていた深井正淑さんを通じて、翁久允を知りました。高島高は、深井さんの父上が滑川に住んでいたことから立山製紙社の産業医を勤めていました。高島高は、翁久允が主宰した「高志人」の〈高志人詩壇〉の選者をしていたので、細川喜久惠さんは「高志人」に詩を投稿するようになり、1943年から1944年にかけて7編の詩が掲載されました。

6月28日の『北日本新聞』文化欄に掲載された小山紀子記者の書評「滑川出身の詩人 高島高 知られざる生涯に光」を読んで細川さんは同紙の〔女のいこい〕欄に投稿され、 7月21日に掲載されました

  青春の記憶               立山町  細川喜久恵 

 先日の北日本新聞に滑川の詩人で医師の高島高先生の写真を見つけ、懐かしさに見入った。記事を読み進むうち、わが立山町の生んだ偉才、翁久允氏の名も現れ、青春時代の記憶がつながった。 

 私は当時、地元の会社に勤めており、社長が滑川出身の緑で高島先生は社医としてしばしば来社していた。

 一方、米国での文筆活動を経て富山に戻り、郷土文化誌「高志人」を創刊した翁久允氏は戦時中、わが家の近くに疎開していた。その縁で私も19歳から高志人に詩を投稿するようになった。自作の詩が活字になったことで有頂天となり、毎号投稿するうちに久允氏にお目に掛かる機会を得た。そのうち選者の高島先生から直接指導を受ける幸運にも恵まれた。

 お二人とも鬼籍に入って久しいが、久允氏の長い顎ひげと、高島先生の黒縁の丸い眼鏡は今も鮮明によみがえる。

 その後の引っ越しで高志人の資料を紛失してしまった。 

2年前に久允氏のお孫さんの須田満氏にそのことを話したら、全てコピーして送ってくださった。今回の記事も共に大切な宝物としたい。