2025年2月15日の『朝日新聞』夕刊に「関大初の女子学生 99年後に卒業証書 ジャーナリスト 故・北村兼子」という記事が出た。 翁久允は、大正末期大阪朝日新聞で働いていた頃からの同僚であった北村兼子について、「三宅やす子と北村兼子の死」という記事で、サンフランシスコで発行されていた邦字新聞『日米』に1932年02月15日から2月21日まで発表しているので、再掲載する。

三宅やす子と北村兼子の死
翁久允
有名になりたい(一)

私が昨年春、日本を出発してから、今日までにいろんな人が死んでゐる。が、人の死と言ふものは、自分に何かのつながりのない以上大した思ひ出もないものである。井上準之助氏の暗殺なんかよりも私の末弟が淋しく死んだと言ふ報や、娘盛りの姪が果かなく果てたと言ふ方が、私の旅の心を、どれ程いためだか知れない。去年の秋に、私は、女流小説家小寺菊子から、北村兼子が盲膓炎で入院してゐたから、見舞に行つたら、重態だつたが、翌日彼女の死をきいたと言ふ便りを得たし、今日(二月十二日)妻のたよりに「三宅やす子さんも心臓麻痺でなくなられました」とあつた。この二人の女流文士について私の思ひ出を語りたいと思ふ。
北村兼子と逢つたのは私が大阪朝日へ転任になつて、アサヒグラフの胆任をやつてゐた頃で、彼女は、たつた一人の女流社会記者だつた。そして彼女の文章を紙上に初めて載せたのは私だつた。それが、彼女と私の交際の、きつかけであつた。小柄な、顔かたちのいゝ眼鏡をかけた、少女々々しい婦人で、その頃は二十三四歳だつた。鋭い観察眼をもつた熱情に富んだ女性で、いつも功名心に溢れてゐた。自分と言ふものを、どうかして世間に発表したいと、それのみに熱中してゐた。大阪朝日の婦人変装記者となつて、各地を探訪した記事なんか、彼女を女流新聞記者として第一位に置くやうなつて来た。だん/\北村兼子が有名になつて来た。どし/\軽快な熱情的な文章をあちこちの誌上に発表するやうになつて来た。そして、もう、兼子さんには大阪は、つまらなかつた。どうかして東京に乗り出して、一流の女流文士として又女流社会運動家として、評論家として、花々しい活動がして見たいと言ふ気で、一パイになつてるやうに見られた。そこで彼女は自己宣伝の第一戦として、汎太平洋会議が布哇ホノルルに開催された頃、何とか言ふ婦人団体を代表して出席したのは海外第一歩の彼女だつた。その頃、私は、東京朝日にゐて週刊朝日を胆当してゐた。受付から、北村兼子さんが面会ですと給仕が言つて来たから、私は久しぶりに応接間に通して、希望に満ち/\たやうな彼女と話た。

送別晩餐会

私のところへたづねて来た頃は、文壇でも北村兼子の名があちこちの会合や、ゴシツプに現れてゐた、私はホノルルゆきの兼子のために、さゝやかな送別晩餐会を催して、彼女の前途を祝してやつた。半年あまりで帰つて来た兼子は可なリハイカラになつてゐた。ホノルルからアメリカに渡つてニユヨークまで行つて来たと言つてゐた。だん/\野心や希望も世界的になつてゐた。そのうちに兼子が、小説家三上於菟吉と同棲してゐると云ふ噂をきいた。同時に『理論熱情』とか、『女浪人』とか言ふ書物を矢つぎ早に出版した。そして、私に出版記念会の発起人になつてくれと云つて来たから承諾してやると、文壇知名の士七八十人の顔ぶれの中へ私の名も入れて、大々的な紀念会を催すことを発表した。

直木三十五が来(きた)から、「おい、三上は近頃兼子と一緒になつてるさうだが、逢つたかね」ときくと毎日のやうに逢つてると言ふ。ぢや、今日これから出かけやうかと云ふので、直木はその頃自動車をもつてゐたのでそれに乗つて、麻布の山形ホテルの三上於菟吉の密びの部屋を叩くと、兼子は寝巻のまゝ机にもたれて原稿をかいてゐた。三上はその頃東京日々に「激流」だつたらうと思ふが、さうした長篇小説に追はれてゐたので、腹ばいになつて、泉筆(せんひつ)を走らしてゐた。変なところを私に見られた兼子は勿論狼狽してゐた。それでもお茶を出したりなんかしてゐたが、三上との関係が、だん/\文壇ゴシツプを賑はし始めた。三上は大衆文芸家として今でも一流の作家だがその頃は人気の頂上で、通俗雑誌の七八つに長篇をかき、東京日々や週刊もの、その他に盛んに書き立てゝゐた。だから原稿料は毎月五千円を下らなかつた。その五千円は彼の遊蕩費として消費されてゐたのだが、それらの遊蕩にもあいて、素人女の兼子と同棲することが、彼の新しい興味でもあつた。三上の夫人としては長谷川時雨女史がゐるが、昔の恋愛関係は、今や彼よりいくつか年上な女史に無論興味がなかつた。で、彼は夫婦関係の安全弁と一つとして時雨女史に『女人芸術』を発行させ、毎月五百円位づゝつぎ込んてゐた。だから時雨さんと兼子の関係は、誰でもわかるやうに决して面白いものでなかつた。私は時折り、時雨さんから、三上のさうした荒れすさんだ生活に対する不平をきかされた。

◇名士から名士へ◇

北村兼子は文壇的に興味の中心となり、彼女自身の盛名も可なり広くなつて来た。名士と言ふ名士の間は、それは実業家であらうが、政治家であらうが、軍人だらうが教育家だらうが、どこへでも縫つて歩いた。その頃鶴見祐輔の名が講談社の広告から全国的になつてゐた。兼子は彼氏とも親交があつた。演説も仲々上手だ。総選挙などになると、各方面の演壇に飛びあがつて、熱情あふれる雄弁で滔々やつたものだ。
彼女の眼界が広くなつて来ると、小説家三上於菟吉一人を護ることの愚かが彼女を反省せしめた。三上の懐(ふところ)から飛び出した彼女は転々とし、名士の懐を飛び出した。そして、今度は単身、ヨーロツパに旅行して、例のツエペリン号に乗つて日本へ帰り、世界的に北村兼子の名を印象せしめやうとしたが失敗して、帰国すると、全国的に旅行しながら、機会ある毎に自分の名を売つてゐた。
『薹湾の方から、講演に来てくれと言つて来たのですが、あなたゆくことが出来ませんか』
と私に言つて来た。それは、兼子が中心になつて、林芙美子とか、生田花江、堀江かど江その他四五人の女流文士の講演旅行で、女ばかりだと面白くないと言ふので誘はれた、私はことわつた。そのかわりに松崎天民氏が選ばれて、出かけたことがあつた。その薹湾旅行中に支那人の陸軍中将とか言ふ富豪と知己になり、以来ずつと、その人の妾のやうになつてゐたのだが私は、それ以上詳しく知らなかつた。
そこで一つエピソートがある。ある夏だつた。突然、私を訪ねて来た兼子は、
『あなたから、先年ホノルルへゆくときに送別会をしてもらつたら、出版記念会のことで随分お世話になつたから、いつか一度御馳走しやうと思つてゐたのですが、今晩つきあつて下さいません?』
と、朝日社へたづねて来て言つた。
『さア、さうですね』
『おさしつかひありません?』
『おごるんですか』
『おごります』
『あとが、あぶないね』
『いゝえ、决して』
『どうせ奢つて貰ふなら、どつさりおごつて貰ひたいですね』
『どつさりおごりますわ。誰か外におつれがあつたら、つれて来て下さいません?』『いゝんですか』
『えゝ、あなたのお好な人、どなたでも。何人でも』
『さうですね。ぢや、御馳走になりましやう。』

女流飛行家

私は、兼子は、そんなに奢りたがつてゐるんだから、一ツ、奢りつぷりを見やうと思つて、誰か酒をのむ友達をと考へた。そこで、私は吉井勇のところへ電話をかけた。酒をのむになら何処へでもゆく歌人吉井伯爵である。オー、ケーだつた。そこへ直木三十五が来た。彼は余り飲まぬが、文芸春秋の鈴木氏亨をよぶことにした。四人揃つて築地の長崎料理へ出かけた。
宵の口から十時すぎまで飲んで、無茶苦茶に御馳走を註文した。さア、もう帰らうと言ふ頃になつて兼子は仲居を呼んで勘定してくれと云つた。そして手堤の中から百円の札を一枚ひきぬいてゐた。吉井でも直木でも、この兼子のやうにいつも百円札を懐ろにしてゐることが尠なかつた。いくらお釣りがあつたかしらないが、外に出ると兼子は、
『私、カフエにゆきたいの。つれて行つて下さらない?』
みんな、いゝ気持ちになつてるから、不賛成はない。それから、たしか、俳優沢田正二郎のもとの妻、渡瀬淳子のやつてゐた、『ジユンバー』に這入つた。そこでも、二三十円つかつて来た。
それは、兼子がドイツから帰つて来てからだつた。
その後、兼子は、いろんな方面に発展し始めた。さうして各方面から注目されるやうになつたが、いつかその反動が来た。そこで、もう一度何んとかして人気をたてたいと言ふ一ぱいの気もちが、とう/\彼女をして女流飛行家を志願せしめた。
私が海外旅行を思ひ立つた頃は、兼子さんが、飛行機上から下界をながめてゐたのであつた。それが、とう/\飛行機から落ちてゞも死んだら、面白かつたのに、平凡な盲腸炎なんかで、命をとられたのは、惜いことだつた。
彼女の著書は五六冊ある筈だ。みんな私ところへおくつて来たが、余り私は読まなかつた。帰つたら読もうと思ふてゐる。
昭和の劈頭から、日本には随分変わった女性が出現した。その中の一人として北村兼子などは特筆すべき女である。ある意味に於て代表的な昭和女性だつた彼女は法律を学んだ。漢詩なんかも作るし、書もうまかつた。三十になるかならぬで死んだのだが、将来婦人参政権でも確立されたら、イの一番に代議士候補なんかに立つと言つたやうなタイプの女だつた。

やす子とゴシツプ

三宅やす子さんが朝日新聞に『奔流』と言ふ長篇小説を書いてゐた。日米新聞にも転載された筈だ、女流作家として、その頃は一流であり、菊池寛や芥川竜之介、久米正雄なんかとも親交があつたので、文壇的にも人気立つてゐた。文壇的集会の時などは、心ず女性代表としてスピーチをさせられてゐた。でつぷり肥つた、綺麗な声で、しやべる人で、未亡人だと云ふことが、いろんな意味で人の噂を巻いてゐた。吉屋信子は独身であるし、厨川蝶子未亡人とか三宅やす子未亡人、と云ふ名が、その頃、与謝野晶子とか白蓮女史とか云つた人達のやうにどこかおさまつてる人達とは違つた意味で人気たつてゐた。山田順子が徳田秋声と浮き名を流したのもその頃だつた。
私は『奔流』の作者と逢つたのはいつが始めてだつたか記憶にないが、誰かの出版紀念会か送別会か、そんな風な会場だつたらうと思ふ。それから週間〔刊〕朝日の臨時号なんかに小説をたのんだり、又彼女自身が、たづねて来て小使ひ金に困つた折などは、原稿をもつて来るやうになつた。

説教強盗と云ふものが一時帝都の社会を不安ならしめたころ第二、第三の説教強盗が出現して、その第二世説教強盗が、やす子さんの宅に押し入つたと云ふので、変な噂が立ち初まつたそれは、やす子さんにとつては迷惑至極な噂さで、当時、新聞雑誌を賑はしたが、その説教強盗が、やす子さんを強姦したと云ふのが、噂の種だつた。文壇雀が、その噂を布衍して、いろんな猥談をつくりあげたりした。その前に、芥川龍之介の自殺は菊池寛とやす子との三角関係の結果だなんと云つたこともあつた位、文壇の性的ゴシツプは、いつも微に入り細に渡つてゐた。だから説教強盗問題は一年あまりも、人々の噂から下らなかつた。
あとから『金』と云ふ小説を書いてやす子さんが、そのころの彼女自身を描いたらしいが、私はその小説をまだ読んでおらぬ。

長女のつや子は、フラツパーで謂(いは)ゆるモガだつた。しかし怜悧な少女でモボ画家阿部金剛と恋愛に陥り、遂に結婚したが、私達は帝国ホテルの披露会に出てこの二人の青年新郎新婦の前途を祝福した。文壇学界の名士が二百何十人も集つた。母としてのやす子夫人は、「よき母」である如く見られた。

「箱根の一夜」

つや子の結婚前だつた。
私は、箱根、湯元の花の茶屋主人から、知名な女流作家を五六人つれて遊びに来てくれと言はれてゐたので、誰にしやうかと物色してゐた。女流作家にもいろ/\な閥があつて折角旅行するにも気の合はない人では面白くなかつた。そこで、小説家の小寺菊子、歌人今井邦子、詩人生田花世、小説家吉屋信子、三宅やす子の五人に交渉した。吉屋信子がフランスから帰つて来たあとなので、彼女の歓迎会と言ふ触れ込みだつた。
みんな話がまとまつた。
南天の実が紅く庭に光つてる頃だつたらう、秋も末だつた。箱根の山は紅葉してゐた。
花の茶屋では歓待してくれた。男は私一人だつた。夕方まで凝り屋の主人が丹念につくつた庭を歩るいたり、温泉につかつたりしてから、五人の女と共に酒を交はしたものである。
寄せ書きするやら、文壇、画壇の話やら、女三人でも姦しいのに五人もの女と、その上にお酌だから、私もボツとしたものである。しかし、そんな気のおける人達でもなかつたから、夜の更けるまで膳を離れなかつた。吉屋信子が一番喋舌つた。やす子さんは一人残して来てるつや子嬢が気にかゝつたらしかつた。晩に帰ると言つてゐたが一人帰るなら、みんな帰ると脅かしたので、気の弱い(或意味で)やす子さんは、少しほろ酔ひになつてゐたが、それぢや、と言ふわけで、みんな泊ることになつた。
花の茶屋には泊る部屋がなかつた。で、六人は湯元の、いゝ旅館へ自動車で送りつけられた。旅館では、変な目で見てゐた。芸者でもなければ、田舎者でもない。そして又大した別嬪揃ひでもないが、と言つて女優でも浪速節でも、他の芸人らしくもない女五人に、一人の男がついて乗り込んだものだから、何だらうと、番頭の目が光った。しかし宿帳にみんなが住所氏名を書きつけると、番頭や主人の態度が、がらりと変つて、式紙や画帖をもつてきた。
六人は思ひ/\に何かを書いたり描いたりした。
夜は更けた。やす子さんを真ん中に、吉屋信子と小寺菊子が両側に寝た。その隣りの部屋に邦子さんと花世さんが寝た。そして私は別の部屋でぐつすり寝たのだが、あくる朝になると女連がキヤツ/\と騒いでゐた。やす子さんが温泉につかつてる間に、私はそのまだ温かい床の中へもぐり込んで、菊子、のぶ子の両氏といろんな話をして騒いでゐた。やす子さんか帰つて来ると、「あら、まア!」だつた。

「六人会」

それから、六人で毎月一回づつ、各々の家庭で集会する一種の倶楽部のやうなものが出来たが一番に御馳走したのは今井邦子だつた。この代議士夫人は、盛んに、御馳走してくれた。第二回目は、吉屋信子の家で、これは、二日会と言つて、私達が徳田秋声氏を中心として、毎月の二日に本郷森川町の秋声氏邸で集まつて、雑談会をやる連中と一緒にやつた。二日会の主だつた連中は中村武羅夫、小司小剣、近松秋江、加能作次郎、岡田三郎、浅原六朗、尾崎士郎、宇野千代、今井邦子、小寺菊子、安成二郎、宮地嘉六等でいつも五六人集まつて、愉快な一夜を過ごすのだつた。信子は、正月でもあつたし、落合の家をその会に提供したのて来会者は約二十四五名あつた。酒を飲むやら、ダンスをやるやら、隠し芸をやるやら大騒ぎだつた。
その次ぎが、やす子さんの家だつた。郊外の砧村で、この村にはいろんな文士や画家が住むでゐた。近くに加藤武雄もゐる。青踏社時代の平塚明子もゐれば中河与一夫妻もゐた。が、私達は六人集まつて、しんみり、一夜を語り明した。鋭教強盗の這入つた話や、この近代的な郊外の日本のバンガロー式邸宅の建築の話や、それから、文壇的な話なんかゞつきなかつた。やす子さんの寝室に入ると、彼女氏の書いた式紙や短冊があつた。で、みんなが、書(かき)あつて、記念的に交換もした。その時のやす子さんの和歌をかいた短冊が、今となつては形見となつたわけだった。
それから、生田花世さんの夫君の詩人生田春月が瀬戸内海で自殺したり、夏になれば、みんな思ひ思ひに避暑に行つたりして、散り/\ばら/\になつて、私の家で集まると言ふ約束も、実行しないで過ぎた。その年の冬だつたと思ふ、もう一度六人会をもり返さうと言ふ話が出たので、私と小寺菊子、今井邦子と三人で日本橋の今は一寸名を忘れたが、何とか言ふ料理屋でそこの主人が、伊豆の下田から出た人で、例の唐人お吉のかいたものを、もつてると言ふので言ふので、そんなものを見にゆく序で一夜を会食した。これから、この料理屋で、やることにしやうときめたが、それも、その翌年の新年に二日会をやつたかつた。
やす子さんは私の会には必ず来てくれた。今度海外へ出た時の送別会にで出てくれた。私は年賀状を送つたのだが、何かその返事が来さうなものだと思つてゐるうちに訃報を聞いたのである。
つや子さんが結婚してから、もう母としての手がなくなつたので、だん/\若返つてゐたし創作にも熟心になつてゐた。そして女流作家としては、押しも押されもせぬ列に乗つてゐた彼女氏の作品は、近年勃興して来たプロレタリア派の作家からは所謂ブル作家として、批難されてゐたが、この人は、この人の立ち場をこれからでも押し通してゆく人であつたに違ひなかつた。私は、帰つても当然逢ふべき一人の人であつたやす子さんの死を、この地で聞くことが淋しかつた。(終)