富山市立図書館5Fの特別コレクション室前で〈翁久允と高島高〉展が、7月8日から10月5日まで開催されています。 第33回翁久允賞を受賞した伊勢功治氏の著書『北方の詩人 高島高』などに詳しく描かれた翁久允と高島高の交流を翁久允文庫に所蔵されている資料を展示して説明しています。
〈展示会説明文 富山市立図書館 調査係 主査司書 水島怜香〉
翁久允と高島高
高島高は、富山県滑川市出身の詩人です。「北方の詩」、「北の貌」などの作品で知られ、将来を期待されていましたが、44歳の若さでこの世を去りました。翁久允文庫には、翁と高島の交流を伺うことのできる資料が残っています。二人の間にどのような関りがあったのか、高島の人生に沿ってみていきましょう。
高島は明治43年、代々医業を営む家の次男として生まれました。父の地作は医業の 傍ら俳句や俳画を好み、小林一茶の半分を借りて「聴濤庵半茶」(ちょうとうあんはんさ)の俳号を持つ人でした。母、静枝も文学を愛する教養のある女性でしたが、高島が旧制魚津中学に入学した翌年に亡くなってしまいます。高島は、その苦しみから文学・哲学 に触れ、詩や創作に打ち込むようになりました。
やがて、日本大学予科に入学するため上京すると、高島は詩や散文などを冬木牧人の名前で週刊誌に投稿するようになります。その後、父の強い願いによって日本大学を中退し、昭和医学専門学校に進んで医学を修めるようになっても、詩作から離れることはありませんでした。
昭和10年、詩コンクールに応募した「北方の詩」が一等当選します。このコンクールは若手詩人の登竜門であり、審査員を萩原朔太郎、北川冬彦、佐藤惣之助らが務めていました。高島は「新詩壇には稀れに見る男性的詩人」(*1) として当時の詩壇に迎えられ、北川冬彦が主宰する「麺麹」(ぱん)の同人となります。
昭和医専を卒業した高島は、横浜で勤務医として働きながら詩作に励み、昭和13年には処女詩集『北方の詩』を刊行しました。同年には結婚し、自宅で多くの詩友と芸術論を交わすなど、充実した日々を送ります。しかし、昭和14年に父、地作が病に倒れたことから郷里に戻り、父のあとを継ぐことになります。医師として地元に貢献する傍ら、文学への志は捨てきれず、翁が主宰していた郷土雑誌「高志人」へ寄稿するほか、 昭和17年9月には、同誌の詩壇選者となりました。「高の詩を郷土で認めてくれたのは翁」(*2)であったのです。
その後、高島は昭和18年に軍医として応召され、フィリピンやシンガポールなどを 転戦しました。一方、翁の主宰する「高志人」は戦時下の雑誌統合により昭和19年に 廃刊となり、県下で発行されていた6誌を統合した「高志」として発刊されます。高島 は「高志」にも、「昭南兵舎近くにて」(詩)等の作品を寄せました。その後、高島はタイで終戦を迎え、過酷な収容所生活を経て、昭和21年に日本へ帰還しました。
(*1)『北方の詩』序より、北川冬彦が寄せた言葉から引用
(*2) 参考文献(1)『北方の詩人 高島高』より引用。
帰国した高島は文学活動を再開し、医業の傍ら文芸雑誌『文学組織』を発行します。 『文学組織』は、滑川を拠点として現代詩の改革運動の発信を試みたものであり、北川冬彦をはじめとした東京で交流のあった作家や詩人たちが作品を寄せました。翁も「永 井荷風さん」、「竹久夢二の思い出」 等の作品を寄せています。
一方、高島も、戦後まもなく翁が復刊させた「高志人」に毎号のように詩や随筆を寄せました。翁からの信頼も厚く、戦前からの「高志人」詩壇選者としても長く地元の若い詩人たちの詩評を続けました。
昭和25年に高島は第三詩集『北の貌』を発表、同年の『現代詩事典』(飯塚書店) では、高村光太郎『智恵子抄』、草野心平『蛙』等とともにその年に発行された詩集べ スト5に選ばれます。昭和 27 年には、『日本詩人全集』第六巻(創元社)に西脇順三 郎、村野四郎、横光利一等とともに名が連ねられ、昭和期を代表する作品として「北の貌」が収録されました。
その後も、医業と詩作の両方に邁進した高島は、心身の疲労から病に倒れ、昭和30 年5月にその生涯を終えます。大勢の人が集まった葬儀では、翁が弔辞を読みました。 また、翌月の「高志人」には、「詩人高島高逝く」として、中山輝らが追悼文を寄せました。翁も「弔詞」として以下のように綴っています。
高島君!君は一口で言ったら「ほんとにいい人」であった。それは君の純情がいつも君 の顔に口に手に足にそしてからだ全体にみなぎっていたことで誰でも感ずることが出来たのだ。そうした純情の中から君の詩は朝から晩まで湧いて流れていた。だからきみ は生まれつきの詩人だったのだ。(中略)後に残った私にしてみれば、殆んど毎月君からおくってくれた高志人への詩や随筆の 原稿がもう再び郵便に依って配達されないのだと思うと糸のきれた紙薦を追う子供のような心もちにもなるのだ。又、昨年君たちによって結成された滑川市の高志人会支部 にゆくと言っても、君がいないとなれば、何か必要なものが欠けているようで淋しいのだ。 (「高志人」第20巻6号 翁久代「弔詞」より抜粋)
翁の率直に自分の感情を吐露した文章からは、高島の純粋な人柄と、翁が高島に限りない親しみを寄せていたことが伝わります。翁と高島は、どちらも戦前、東京で文学や芸術に触れ充実した生活を送った後に郷里に戻り、戦後の混乱期を富山で過ごしました。 再びの上京を諦め、地方での文学活動を試みた者同士の、境遇を同じくする気持ちがあ ったのかもしれません。
参考文献 (すべて富山市立図書館で所蔵しています)
(1)『北方の詩人 高島高』伊勢功治/著 思潮社、2021
(2)「高島高、その文学観と詩法〜詩誌「文学組織」「文学国士」から〜」金山克哉『群峰』2 富山文学の会 2016
(3) 『別冊 炎のように生命燃やした詩人 高島高』立野幸雄/編 高嶋修太郎/発行 桂書房 2013
(4) 『いのち輝くとき 孤高の詩人 高島高展図録』滑川市立博物館/編滑川市教育委員会 2005