明日は二百十日、風の盆です。
長尾洋子さんの『越中おわら風の盆の空間誌 ー〈うたの町〉からみた近代』(ミネルヴァ書房)が出版されました。
越中八尾が「おわら節」の街として全国に知られる過程を、おわら保存会の創設者である川崎順二の残した資料の目録作りから関わった著者が、新聞雑誌、書簡などの多くの資料を駆使してまとめた力作です。「風の盆」に関する初めての本格的な研究書といえます。
一昨年総合研究大学院に提出した博士論文に「戦時下のおわら」と「おわら風の盆の半世紀に耳を澄ます」が書き加えられています。その中所収された「翁久允—〈うたの町〉と文士をとりもつ仲介者」は、翁久允と八尾とのつながりを『翁久允全集』や「高志人」「高志」のみならず、おわら記念館所蔵の川崎順二あて書簡も細かく調べて正確に描かれています。
翁久允の富山中学校の同級生であった八尾の聞名寺のオッサン[次男坊] に呼ばれて、日露戦争時代にさびれていた風の盆を観たこと。昭和4年8月11日、八尾劇場で開催された小原節保存会の設立総会に、来賓として麻生豊、水木伸一、藤田健次、若柳吉三郎、若柳吉美津と参加したこと。昭和10年秋、健康を害し、保養のため妻キヨの兄石黒孝次郎のいる高山市へゆき、40日間ばかり滞在して、高山で詩人であり郷土研究家の福田夕咲や『受難者』の著者で雑誌「ひだびと」の主幹である江馬修らと知り合い、その帰りに八尾に寄り川崎順三らと会い、郷土研究誌創刊の意を固めたこと。昭和13年、俳句吟社「東風会」のメンバーである室積徂春、邦枝完二、渥美清太郎を風の盆に連れてゆき、このメンバーと久允が、おわら保存会主催歌詞募集の選者となり、当選した歌が「高志人」掲載されて行く。長尾論文は、戦中に書かれた未刊行の翁久允のおわら節募集の選評を細かく読み下して、水野真理子さんが引用していた久允が在米中に「富山日報」に掲載した「田舎モンとして 悟りきれぬ日本人」を使って、久允の立ち位置であるコスモポリタニズムとローカリズムの両面性を論証しています。この論考は、郷土研究誌「高志人」発刊後の翁久允の活動に関する最初の研究でもあります。
終戦の年昭和20年の風の盆は中止されたいうのが定説でしたが、細川光洋さんが昨年9月13日の「北日本新聞」に掲載した「吉井勇と高志びとたち〜戦中日記より(3)川崎順二 八尾疎開のキーマン」の文末に〈夜半街頭をおわら節をうたひつつ過ぐる一群あり。この夜風の盆なるがゆゑなるべし。〉という昭和20年9月1日に疎開中の八尾で吉井が書いた日記の一節が引用され、終戦の年を八尾で過ごした方々も少なくなって中、少しずつ当時の様子も見えてきました。今後更なる関係者とのヒアリングが積み重ねられることを祈ります。
来年は風の盆の発展に寄与した川崎順二、小谷契月両氏の五十回忌にあたる年です。是非、両氏の業績を広く知らせるイベントが開催されることを祈ります。